平安時代のこの付近は、東に24メートルに及ぶ東洞院大路が東洞院川の清冷な流れに沿って南北に延び、藤原顕高(燈籠町)を始め、経宗(葛籠屋町)、成通(新開町)など、藤原氏一門の邸宅が数多くありました。中でも、藤原忠通の四条邸は、四条大路の東洞院から高倉までの南側一帯、一丁四方及びました。久安4年(1149年)6月26日、土御門皇居が炎上した際、近衛天皇はこの忠通邸に難を避け、仁平元年(1151年)6月7日、忠通邸が炎上するまでの2年1ヶ月間、ここを仮皇居とされました。
室町時代『祇園社記』によれば、応仁の乱以前の「祇園会山ほこの次第」に「うかひ舟山、四条高倉と綾小路間」と記され、当町内に「うかひ舟山」が存在したことを物語っています。応仁の乱以前の四条大路は、幅員24メートルの大通りで建武(1334年)以来、商業の中心地として賑わい、立ち売りの店などが出て喧噪を極めていました。四条高倉(立売中之町)南側には、室町時代初頭より園会桟敷が設けられ、祇園会祭礼の当日には、足利将軍が臨席するのを例としていました。また、「くじ改め」の行事が行われたのもこの場所でした。
天正年間(1573~91年)豊臣秀吉の洛中再整備計画によって再開通して以来、非常に狭くなりほぼ現在の幅員となりました。高材木町の由来は、秀吉の洛中整備により堀川筋に密集する材木商を市内名所に分散した名残りです。
江戸時代『山城名勝志・巻4』慶安2年(1649年)2月27日の条には、四条立売町の繁栄振りを詳しく伝えているし、『雍州府誌・七』では、江戸時代、毎年3月3日の上巳節句の数日前からこの付近一帯で、雛人形やその装具類が販売され、女子供で賑わったさまを述べています。 |