京都・島津では文化事業の一環として「京都千年回廊」を企画し、千年余の歴史・文化の中から毎年設定するテーマに基づいた情報案内をホームページから発信して行きます。その第1回目は2010年にNHK大河ドラマ「龍馬伝」にちなんだ「龍馬追想」です。 京都・島津が創業したのは坂本龍馬が誕生する2年前の天保4年(1833)で、総本店に間近い錦小路東洞院には彼を庇護した薩摩藩の初代藩邸もありました。「京都千年回廊2010・龍馬追想」で京の地に点在する「龍馬の足跡」を探訪してみませんか。
江戸時代は徳川幕府のお膝元である江戸と共に京都が重要な拠点であり、雄藩は市中に藩邸を構えました。薩摩藩が18世紀の初めに設置した錦小路藩邸は現在の大丸京都店がある錦小路東洞院付近にあり、藩邸址を示す石碑には「蛤御門の変(1864年)による兵火で焼失した後は、明治3年(1870年)に他の諸藩の京屋敷と同様に廃邸になった」と刻まれています。往時の京都島津も四条通を挟んでごく間近に位置しており、薩摩藩邸に出入りしていた坂本龍馬は、この辺りを頻繁に歩いていたと思われます。
日本の歴史を大きく動かした龍馬の仲介による薩長同盟が締結されたのが薩摩藩邸です。その屋敷内において西郷隆盛と桂小五郎が極秘裏に会合し、幕末の奇跡ともいえる両藩の結束が実現したのです。当初、この藩邸は錦小路東洞院にありましたが、文久3年(1863)に相国寺の境内に新設されました。
春には桜花が咲き誇る高瀬川は京都と大阪を結ぶ重要な水路であり、諸藩の志士たちもこの地を行き交いました。その三条通と四条通の中ほどに龍馬が脱藩した土佐藩邸がありました。元立誠小学校の前に大きな石碑が立っています。また、間近に鎮守社である土佐稲荷・岬神社が残されています。
高瀬川の一之舟入の南側、現在、京都ホテルオークラが建つ場所に長州藩が広大な藩邸を構えていました。薩摩藩と勢力を二分する雄藩でしたが、蛤御門の変で敗れ、自らの手で藩邸に火を放ち、都落ちしました。河原町通に面したホテル西側玄関横に桂小五郎の銅像があります。
京都の治安を守るために文久2年(1862)年に京都守護職が新設され、会津藩主・松平容保がこの要職に就任しました。その本陣は東山・黒谷の金戒光明寺にあり、この御預かりとして新選組が誕生したのです。上屋敷は現在の京都府庁の地に設けられました。正門を入った右手に石碑が立っています。
幕末に木材商と水運業を営んでいた京都でも屈指の豪商酢屋六代目・嘉兵衛は龍馬を支援したことで知られています。海援隊の京都本部もこの商家内に置かれ、その名を幕末史に刻んだ数多くの志士もここに投宿したと伝えられています。現在、ギャラリー龍馬が開設され、数多くの龍馬ファンが訪れています。
長州藩邸の東、木屋町御池の間近にある料理旅館「幾松」が桂小五郎の寓居跡です。新選組に付け狙われていた彼は芸者であった幾松に何度も窮地を救われ、維新後は木戸孝允として大きな仕事を成し遂げます。屋敷内にはいまも隠し階段など往時を偲ぶ敵への備えを見ることができます。
木屋町三条西に旅館「池田屋」がありました。近藤勇が率いる新選組と志士たちの死闘は小説や映画でも広く知られています。この夜、宮部鼎蔵、吉田稔麿など数多くの武士が命を落としました。元治元年(1864)のことです。三条大橋の南側、2個目の欄干の頭部の飾りに残る傷は、この時の刀傷であると伝えられています。
長州藩と会津・薩摩・桑名藩が蛤御門で激突したのは元治元年(1864)です。この時、長州藩の遊撃隊が御所に向って発砲したために朝敵と見なされ、長州征伐が行われます。ちなみに、江戸時代の大火の時にはじめて開門したことから、炎で口を開ける「蛤」になぞらえてこの通称が生まれました。
伏見は大阪と京都を結ぶ港であり、寺田屋は薩摩藩御用達の船宿でした。慶応2年(1866)冬に宿泊していた龍馬は伏見奉行所の追っ手に取り囲まれます。その時、二階に居た彼に襲撃を知らせたのがお龍でした。辛くも難を逃れた龍馬は、その後、傷の療養を兼ねて彼女と薩摩へ新婚旅行に出かけています。
三条通大宮の西に平安時代からの古社として名高い武信稲荷神社があり、龍馬とお龍のゆかりの地としても知られています。境内にある榎の幹に刻まれた「龍」の文字は龍馬からお龍への伝言だといわれて、二人はここで再会することができたと語り伝えられています。現在はこの逸話によって恋愛成就、縁結びにご利益のある神としても人気を呼んでいます。
お龍の父親・楢崎将作は勤王派の医師でした。彼は安政の大獄の時に捕らえられ、武信稲荷神社の近くにあった六角獄舎に収容されます。その実家は柳馬場三条下ルにあったと伝えられ、お龍はこの家で二十歳前後まで育ちました。その跡地には今も石碑が立っています。
徳川家の最後の将軍となった徳川慶喜は、慶応3年10月13日に二条城の大広間に各藩の重鎮を集め、大政奉還の決意を述べました。しかし、討幕派はあくまでも武力による幕府壊滅を画策し、王政復古へと突き進み、日本各地で戦火が起こります。
四条河原町から北へ少し歩いた所に龍馬が定宿にしていた醤油屋「近江屋」がありました。慶応3年(1867)11月15日の夜半、突然切り込んで来た刺客の刃に龍馬は倒れます。この時、中岡慎太郎も惨殺されました。徳川慶喜が大政奉還を行った約1ヶ月後のことでした。暗殺の犯人は今日も特定されておらず、歴史の闇に閉ざされています。
京都御所内にある小御所は主に皇太子の儀式を執り行う建物です。王政復古の大号令が発せられた夜に、ここで御前会議が開かれたことから幕末維新の回天の地として新たな歴史を刻むことになりました。慶応3年(1867)12月9日に徳川家の辞官納地が決定したのです。
幕末維新のために活躍した志士を祀るために明治元年(1868)に建立された霊山官祭招魂社が現在の京都霊山護国神社です。この境内に龍馬のお墓があり、その横には共に命を落とした中岡慎太郎が眠っています。ちなみに、この神社には桂小五郎、高杉晋作らの墓石もあります。
京都霊山護国神社の近くにある霊山歴史館は数多くの人々が訪れる幕末維新ミュージアムです。収容されている資料は約5千点にも及び龍馬をはじめとする志士や新選組の歴史的に貴重な文献・遺品などを閲覧することができます。ちなみに、久坂玄瑞、井上聞多、武市半平太など歴史に名を刻む多くの志士たちが密会を開いた「翠紅館(現在は料亭・京大和)」も間近にあります。
・八木邸の南に建つ壬生寺で彼らは武芸の訓練に励みました。境内には局長・近藤勇の胸像、芹沢鴨や隊士の墓があります。また、考え方のちがいから新撰組を脱し、切腹した副長・山南敬助もほど近い光縁寺の墓地に眠っています。