雛人形(ひな人形)、五月人形なら京都島津

 

京都島津の歴史

天保四年に創業。禁裏御用達の司として誉れを受ける。

「山城のみやこいかにと春秋の花に紅葉におもいやりつつ」。これは、明治天皇が京都から東京へ移られた後に、千年の都として栄えた京都への郷愁を歌われたものです。桓武天皇が平安京を開かれてから明治二年まで実に1075年もの間、宮廷を中心とする高雅の文化を繚乱と咲かせた京都。それは日本のいにしえよりのあこがれの地であり、永遠の心のふるさとです。
初代当主・嘉助はこの京の都で伊勢屋三左衛門につかえ、天保四年(1833年)に創業。後に禁裏御用達の司となり、有職の匠としての技と名工の誉れを継承。五代目当主・信次は、昭和天皇御大典の盛儀に当って祭具御用達の名誉を賜りました。即位御大典は昭和三年十月、京都御所で執り行われました。威儀を正した大礼使から御下命があったのは、御即位の神器を奉載する神具であり、大礼のもっとも重要な儀式に用いられる御道具でした。御下命の栄にあたり、五代当主・信次は何度か上京して宮内庁を訪れ、謹製の準備をすすめました。そして、斎戒沐浴して製作に没頭し、約一カ月の時を経て完成。宮内庁所定の納所、京都御所に礼服を着て納入したと伝えられています。このようにして、五代当主・信次にとっても、京都島津にとっても、この時の誉れは末永く記念されるものとなりました。

五代当主・信次が即位の大礼におよび神具を謹製納入。

即位の大礼では皇位の象徴である三種の神器の継承が執り行われます。八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三種です。八咫鏡と八坂瓊勾玉は天照大神の天岩屋籠りの時に造られた宝物で、草薙剣は素戔鳴尊が退治した八岐大蛇の尾から出現したとされています。宮内庁よりの御下命によって五代当主・信次が謹製納入したのは、この神器を奉載する神具「剣璽の案(けんじのあん)」です。このことは当時の京都でも脚光を浴び、各新聞社の紙上でも大きく報道されました。
「京都市高倉佛光寺上る島津信次氏は宮内庁より御下命を蒙り御劍璽乗臺を一ヶ月以前から斎戒沐浴して謹製申し上げていたが十五日のよき日に出来上がったので十八日に京都御所に納入した。御劍璽乗臺は尾州産檜の白木作り二尺八寸角高さ一尺五寸餘のいと御見事なものである」。このような報道記事が残されています。

受け継がれる有職京もの、そして次代へ。

昭和に入り、家業より引き継いでの茶道具、結納、正月飾り、そして現在の京都島津を代表するひな人形や五月人形などの節句関連の品目の取り扱いを行います。島津家初代・嘉助より禁裏御用達の誉れの心技を継承する手づくりの有職京ものをお支度し続けるとともに、次代へとこの寿ぎの心を継いでいきます。

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